本日は、竹村公太郎さん著作「日本史の謎は「地形」で解ける」を紹介します。
竹村さんは、1970年に建設省に入省。
以来ダム・河川事業を担当し、国土交通省を2002年に退官後、地形・気象・下部構造の視点から日本と世界の文明を論じる試みに取り組んでいます。
この本のシリーズは、3部作となっており、どの本も極めて興味深い内容となっていますが、この本では、首都の移り変わりと為政者のそこに定めた考え方が、地形の観点から語られています。
日本史の謎は「地形」で解ける
第1章 関が原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか
第2章 なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたか
第3章 なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか
第4章 元寇が失敗に終わった本当の理由とは何か
第5章 半蔵門は本当に裏門だったのか
第6章 赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか
第7章 なぜ徳川幕府は吉良家を抹殺したか
第8章 四十七士はなぜ泉岳寺に埋葬されたか
第9章 なぜ家康は江戸入り直後に小名木川を造ったか
第10章 江戸100万人の飲み水をなぜ確保できたか
第11章 なぜ吉原遊郭は移転したのか
第12章 実質的な最後の「征夷大将軍」は誰か
第13章 なぜ江戸無血開城が実現したか
第14章 なぜ京都が都になったか
第15章 日本文明を生み出した奈良は、なぜ衰退したか
第16章 なぜ大阪には緑の空間が少ないか
第17章 脆弱な土地・福岡はなぜ巨大な都市となったか
第18章 「二つの遷都」はなぜ行われたか
➀関が原勝利後、なぜ家康はすぐ江戸に戻ったか
歴史の専門家が人文社会の面から江戸開府に光を当てるのに対して、竹村さんは、地理や智家の面から見ることによって、新しい物語が浮かび上がってきたそうです。
1590年に徳川家康が豊臣秀吉に江戸への転封が命じられた時、家康は甲府城の建造に取り掛かり、ほぼ完成させていたそうで、家康の家臣も江戸転封の命令に激高したそうです。
その理由に竹村さんは「江戸が手に負えないほど劣悪で、希望のない土地だった」と見ているそうです。
当時の関東は、二つの流域で構成されており、太平洋へ流れ出る鬼怒川、霞ヶ浦の流域と、東京湾に流れ込む利根川、荒川流域だったそうです。
関東平野は、縄文時代に海が奥深く入り込んでおり、かつて海だった低地が水はけが悪く、ひとたび雨が降れば見ずは行き場を失い一面にあふれる湿地だったそうです。
家康は激高する武将たちをなだめ、粗末な江戸城郭に入ったそうですが、城の大修復や新築には取り掛からず、江戸の町づくりに本格的に着手するのも、1600年の関ヶ原の戦いの後だったそうです。
その10年間の間、家康は鷹狩りと称して、関東一帯を徹底的に歩き回り、「宝物」。
つまり、日本一広大で、日本一肥沃で、日本一豊富な水がある温暖な「関東平野」を探し当てていたそうです。
弥生時代以降、日本人の富は「米」であり、米を獲得することが権力を握る方法であったこと。
その宝が関東の湿地の下に隠れていると考えたそうで、今江戸に流れ込む利根川を遠くにバイパスさせ、水はけさえ良くすれば、ここは肥沃な水田地帯となる。
その為には広大な湿地帯を乾いた土地にするという大規模な大地改変の課題があったそうです。
1592年に、近くの神田山を削って、江戸城下を取り巻く湿地帯となる日比谷入江の埋立により、埋立地に武士を住まわし、埋立地を沖へ押し出し、船の接岸の水深を確保する工事をし、江戸の都市の基盤を作る。
その裏で、1594年、江戸から北へ60㎞も離れた川俣(埼玉県羽生市北部)で四男松平忠吉を工事責任者として、利根川の治水と関東の新田開発に専念する体制を整えたそうです。
更に1600年の関が原の戦いで勝利した後、1603年に征夷大将軍の称号を得ると、未だ豊臣家の勢力が近畿、九州などに勢力を持つ中、家康はさっさと江戸に帰ってしまったそうです。
そして江戸に帰った翌年の1604年に、後に「お手伝い普請」と呼ばれる制度を生み出し、諸大名を動員し、彼らの財力や人材を利用して大規模工事に取り掛かったそうです。
中断していた中条堤築造の再開、赤堀川の掘削開始、元荒川の締切、荒川、鬼怒川、小貝川の付替え、江戸川開削など次々と大規模河川工事が進められ、1621年に利根川と西の流域を結ぶ赤堀川が初めて開通したそうです。
赤堀川の工事は、それにとどまらず、更に13mの川幅を1625年には6m拡張、1654年に川底を6m掘り下げ、本格的に利根川が江戸をバイパスして太平洋に流れ出したそうです。
その後も、利根川の洪水は江戸を何度も襲ったため、1809年まで改良工事は続け、最後に川幅73mまで拡幅されたそうです。
②なぜ信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたか
南北に細長い日本列島のほぼ中央に琵琶湖がある。
さらに日本海側と太平洋側が最も近づく場所が、琵琶湖が横たわる近畿一帯という地形。
そして、琵琶湖が日本列島の交流の中心であり、細部の地形から琵琶湖南岸の大津から京都へ山越えする「逢坂」が昔も今も重要な地点になっているそうです。
日本海側から京都へ向かえば、琵琶湖の南岸の大津から逢坂を超えて京都へ。
中部地方から京都へ向かえば、関が原を通り、琵琶湖へ出て大塚ら逢坂を超えて京都へ。
現在、逢坂が日本中の動脈が集中する頸動脈となっており、実際に東海道新幹線、JR東海道、北陸線、京阪電鉄、名阪高速道路が集中しているそうです。
784年に桓武天皇が遷都した長岡京は、逢坂峠の守りを鬼門とし、逢坂の隣の比叡山に延暦寺を創建し、僧侶集団を配置したそうです。
比叡山は、京への侵入口の逢坂を見下ろし、逢坂は馬1頭、2棟が並ぶ程度の幅しかない中で、大将隊を横から攻撃して前後の隊を切り離してしまえば、孤立した大将隊は簡単に崩壊してしまう。
過去、桶狭間で織田信長軍が圧倒的な大軍の今川義元を打ち取った桶狭間の戦いもあったからこそ、織田信長は、比叡山を焼き討ちにし、僧侶を虐殺したのではないかというのが著者の推測するところです。
③なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか
源頼朝は、日本社会で初めて武士社会の権力を確立した武士団の頭目として知られ、宿敵の平家を完膚なきまでに破り、完全な権力を握り、征夷大将軍に任命されたにもかかわらず、頼朝は幕府を鎌倉に構え、閉じこもった。
当時朝廷の京都から見れば、箱根を超えた東は文化が届かない地の果てであったそうです。
実は幼少期に頼朝が流されていたのは、伊豆半島の韮山町の蛭ヶ小島にいたそうです。
西は沼津から駿河湾が広がり、東海地方が見通せるため平家の監視が厳しい一方、東は伊豆と箱根の山々が連なっており、熱海、伊東がある。
熱海、伊東から舟に乗れば相模湾を通じて三浦半島、更に房総半島まで行ける。
また、鎌倉は山々に囲まれており、前面に広がるのは由比ガ浜という海岸である。
この遠浅の浜が防御としては鉄壁だったそうで、多くの兵士を運搬するには舟が必要だが、接岸場所が遠浅の砂浜だと、とても重装備で砂浜をついて進軍するのが難しかったそうです。
一方、鎌倉は狭く、朝廷のいる京都から遠すぎる。
では、何故それでも鎌倉に置いたかという理由について、筆者は以下のように分析しています。
当時桓武天皇が794年に建設した平城京には、20万人が住んでいたそうです。
その前提で人口密度を計算し、今と比較してみると1㎞2当たり4900人。現在の東京都の人口密度が5500人、大阪府でも4700人と、非常に多かった。都の周辺はスラム化し、衛生環境は悲惨な状態になっていたと推定されること。
特に水道や下水道もなく、飲料用となる鴨川はゴミ処理場、遺体放棄場となっており、周囲の山々は燃料として伐採され、荒れ放題となっていた。
従って、雨が振るたびに土砂流出に悩まされ、疫病が毎年のように蔓延していた。
この疫病を恐れ、3万人しか住めない鉄壁の防御都市、鎌倉に閉じこもったのではないかというのが著者の推論です。
尚、この権威の京都から武士権力が真に独立するのは、徳川家康の登場となる400年の歳月が掛かったそうですが、家康は、頼朝から権威と権力の分離、つまり京都から遠く離れた江戸での権力樹立であり、権威者は権力を振るわず、権力者は権威を転覆しない「権威と権力の分離」を取り入れたと筆者は考えるそうです。
④江戸100万人の飲み水をなぜ確保できたか
大都市の弱点は「飲み水」だそうです。
歴史上の世界のどの大都市も飲み水で苦労しており、都市が誕生した当初は近くの川や湖で水が確保されるが、いつしか必ず大都市は水不足に苦しんでいく。
都市は人々のサービスで成立している場であり、止めどもなく新しいサービスを生み出し、サービスに携わる人々を必要とする。
従い、いくら権力が制御しようとも、都市人口の膨張は避けられず、世界の多くの都市が水不足に陥り、衰退していったそうです。
18世紀、江戸が世界最大の100万人都市となる中、もともと水のない江戸で、いかに水を確保が最大の課題になっていたそうです。
筆者は歌川広重の「名所江戸百景」に虎ノ門外あふひ坂の絵にある人工滝、堰堤が描かれてるところから、赤坂一帯、溜池交差点辺りが貯水池になっていたことに気が付いたそうです。
江戸の飲料水が、玉川上水から得ていたというのは、有名な話ですが、その完成は1653年。
家康の江戸入りは1590年、江戸幕府の解説は1603年から。
この50年の間、日比谷の入江埋立、利根川東遷に加え、虎ノ門堰提を建設。
清水谷公園からの清浄な湧き水を取ることで、日本最初の都市の為の多目的ダムとなったそうです。
更に半世紀後に玉川上水が虎ノ門堰提に連結され、江戸市民100万人の命の水を供給し続けるようになったそうです。
一方、明治時代になり、東京への急激な人口流入により、溜池の水質が悪化。
新宿西口の淀橋浄水場の完成により、溜池を通りすぎるようになったそうです。
更に、東京の膨張によって、人口は1000万人へと増大。
多摩川の水が羽村堰で取水、更に小河内ダムの建設。
ついには利根川から導水することになり、現在は東京は利根川から1日に240万m3の水を導水しているそうです。
筆者の考えとしては、今でも虎ノ門堰提が存在し、溜池が赤坂一帯に広がっていたら、山奥のダムで貯水池の森林や水質が守られていることへの東京に住む人たちの想像力が養われていることを挙げています。
⑤なぜ江戸無血開城が実現したか
幕末に徳川幕府による大政奉還とそれに続いた王政復古の大号令によって、絶対的な権力で日本を支配した徳川幕府が一瞬にして消え、天皇を厨子人とする全く新しい政治体制が出現した。
この日本社会の無血の大変革は奇跡的と言われ、幕末の英雄たちが演じた物語は日本人が誇る最高の舞台劇であるとともに、従来より支えた舟を介して「ものの共有」によりアイデンテイテイの共有という下部構造があったというのが著者の推測です。
これまた歌川広重の「東海道五十三次」の絵から、兎に角船の数が多いことを見出し、19世紀の世界最大の百万都市・江戸が全国各地の米・海産物・木材、特産品、そして工芸品が毎日休むことなく、江戸に注入されていたこと。
江戸に住む諸大名が地元から特産品を取り寄せ、それを金品と交換。
更に江戸から各地へ向かう船には、着物、装飾品、浮世絵、かわら版、工芸品が満載されていた。
この全国各地からモノが江戸に集まり、江戸でまじりあい、全国各地へモノが送り出されることで、日本列島の人々がモノを共有していた。
このことが日本列島で稲作をする以上土地にしがみつかざるを得ない分断された土地で、船のネットワークによるモノの共有により、情報を共有していた。
アイデンテイテイとは情報を共有する仲間への帰属意識を指すようで、モノの共有によって日本への帰属意識が醸成されていたのではないかというのが著者の見立てです。
⑥なぜ京都が都になったのか
著者は、過去の絵画を見るのが好きなようで、サントリー美術館で展示されていた「近江名所図屏風」から、室町時代の琵琶湖西沿岸の四季を通じた人々の生活の様子、そして、「志度寺演技絵」より琵琶湖から瀬戸内海・香川まで木材を川に流して運搬する様子を見る中で、京都が都に適していたと思い知ったそうです。
1853年の黒船の蒸気機関と会うまで、日本の輸送手段は、馬、牛、舟であり、最大の力を発揮したのが舟であったと著者は考えます。
日本列島の地理的中心であり、地図上の地理的重心は、中部地方から近畿地方になる事。
また、日本海側と太平洋側との連絡が容易な場所であること。
大陸から敦賀湾を渡り、琵琶湖を舟で超えると、明治前半まで巨椋池が存在しており、その近くの高台に京都があった。
更に京都から淀川を下ると大阪湾を経て瀬戸内海に出て自由に海上を舟で行き来できた。
筆者は、当時の京都が日本海側と太平洋側の各地を舟で行けるという船運交流の中心地であったことを挙げています。
尚、「交流軸の都市は栄える」という言葉があるそうで、琵琶湖周辺は常に人々が行きかう舞台であったそうです。
ちなみに、滋賀県は、過去から一貫して交流軸の都市となっており、幕府が江戸で開設されてからも、幹線陸路、東海道は琵琶湖を通過し、全国の情報が近江で出会い行きかった。
21世紀になっても、名神高速道路、北陸自動車道があり、米原インターで合流する。生命の本質は情報の交換であり、情報の交換で生まれた人間が都市を創る。
滋賀県の県民一人当たり製造業粗付加価値額は、高速道路が出来る前は全国の中間当たりで低迷していたそうですが、北陸自動車道が開通した後、ついに全国第1位となったそうです。
改めて、京都が1000年以上に渡って都だった理由は、日本の地形上の必然の交流軸であったことが大きいと筆者は考えるそうです。
⑦所感-国の立場でインフラに携わっていた人の発想は違う。
元建設省に勤めていただけあり、竹村さんの地形や地理といった下部構造から日本の歴史を考える視点は、凄く面白かったです。
特に何故その地域に首都機能が出来たのか、歴史の謎を地形から解き明かしていく着想が説得力を持っていると感じました。
この本は、上で上げたテーマ以外にも、元寇が失敗した理由、赤穂浪士討ち入りの裏の話、小名木川設立の本当の目的、江戸の治水物語、奈良の盛衰、大阪の街、福岡の町の発展理由を地形から考えるという非常に面白い議題が沢山出てきます。
またこの本を皮切りとして地形で解けるシリーズは三部作になっており、この後も続編を紹介していきます。