「日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇」を読んで

本日紹介する本は「日本史の謎は「地形」で解ける 文明・文化篇」です。

第一作が相当面白かったため、二作目にも手を出しましたが、期待を超えた内容でした。

筆者の竹村さんは、建設省に入省後、20年間は、川治ダム、大川ダム、宮ケ瀬ダムの建設現場で、ダム技術者として地形や気象と格闘。

その後全国を転勤しながら各地の河川の治水と国土保全の行政に携わったそうです。

その後、現場を離れ、公共事業を説明する任務に携わることになり、その説明に苦労したそうです。

しかし、公共事業というインフラ投資を理解しずらいのは、主役は人生を歩んでいる人々であり、土台のインフラは人々から見えないため、見えないものを理解しないのは当然であると考えたそうです。

そこで、竹村さんは、インフラそのものではなく、インフラが立脚している地形と気象を説明するようになったそうです。

この地形と気象を説明するうちに、その上に立脚しているインフラ、そして様々な人間活動にも触れることになる。

いつしか人間社会、つまり文明のモデルのイメージが固まっていったそうです。

その下部構造は、地形と気象に立脚しており、下部構造がしっかりしていれば、上部構造は花開いていく。その下部構造は、地形と気象の元で、「安全」「食糧」「エネルギー」「交流」の4個の機能で構成されていると竹村さんは考えます。

その上部構造に、産業、商業、金融、医療、教育、芸術、スポーツなどの文化が花開くという考え方です。

実は舞台で演じている役者は舞台の制約、つまり下部構造の制約を受けて芝居を演じていた。

そのことに気が付いてから、各地の地形と気象から、そこに住んでいる人々に光を当てる作業をした内容を文明、文化という形で纏めたのがこの本だそうです。

第1章 なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったか①

第2章 なぜ日本は欧米列国の植民地にならなかったのか②

第3章 日本人の平均寿命をV字回復させたのは誰か

第4章 なぜ家康は「利根川」を東に曲げたか

第5章 なぜ江戸は世界最大の都市になれたか①

第6章 なぜ江戸は世界最大の都市になれたか②

第7章 なぜ江戸は世界最大の都市になれたか③

第8章 貧しい横浜村がなぜ近代日本の表玄関になれたか

第9章 「弥生時代」のない北海道でいかにして稲作が可能になったか

第10章上野の西郷隆盛像はなぜ「あの場所」に建てられたか

第11章信長が天下統一目前までいけた本当の理由とは何か

第12章「小型化」が日本人の得意技になったのはなぜか

第13章日本の将棋はなぜ「持ち駒」を使えるようになったか

第14章なぜ日本の国旗は「太陽」の図柄になったか

第15章なぜ日本人は「もったいない」と思うか

第16章日本文明は生き残れるか

第17章(番外編)ピラミッドはなぜ建設されたか①

第18章(番外編)ピラミッドはなぜ建設されたか②

①なぜ日本は欧米列強の植民地にならなかったのか

歴史は、いつも人物たち、特に英雄を中心に語られるが、竹村さんはインフラという下部構造から見るそうです。

19世紀に欧米列国がアフリカ、アジア、太平洋諸国を次々と植民地にしていった国々や地域には、それぞれ共通する理由があったそうです。

アフリカは奴隷、象牙、金、ダイヤモンドがあったこと。

東南アジアは、ゴム、綿花、紅茶、香料のプランテーションに適した土地があり、純朴で勤勉な労働する人々がいたこと。

南太平洋には青く透き通る島々があり、制海権のために支配すべき島々であったことを挙げています。

一方、日本に到着した各国は生物学者や地質学者を上陸させ、病気療養や研究という名目で日本国中を歩き続け、日本列島の植物や鉱物を収集していったそうですが、日本列島には象牙も、ダイヤモンドも、ゴムも、小麦、大豆、綿花のプランテーションに適する広大な土地もなかったこと。

奴隷にする人々やアヘンを売りつける人々もいなかったこと。

また、1854年に安政伊賀地震、12月に安政東海地震、安政南海地震、更に1855年11月に安政江戸地震が襲ったそうで、この地震が欧米人を恐怖のどん底に落としたことを挙げています。

また、薩英戦争、下関戦争共に各藩が山地の中に本陣を後退させることで、結局鹿児島、下関共に制圧することが出来なかったこと。

欧米軍の先頭の手法は、強力な騎馬軍団による素早い行動と制圧であり、日本の山々と湿地帯では、威力を発揮できなかったというのが筆者の見立てです。

尚、1853年の米国の巨大な砲を満載した黒船の動力は石炭を燃やした蒸気でした。

熱が乗り物の強力な動力になることに日本人は心底驚き、圧倒された蒸気エネルギーが1872年に新橋~横浜間で蒸気機関車として日本の国土に登場したそうです。

欧米の植民地政策の原則は、分割統治であり、その国の権力層の亀裂を拡大させ、内戦に誘って傀儡政権を擁立しその国を支配していきます。

日本の封建社会が海峡と山々と革で分断された流域地域に適応しており、この植民地にならないようにするには、強固な地方主義の封建主義から脱皮する必要がある。

地方に分散していた権力と人材と富を首都東京に集中させ、一丸となって国民国家を構築しなければならない。

明治政府にとって廃藩置県が重要な政治課題となる中、インフラの面で海と山々と川で分断されていた地形を貫き、東京へ人々を集める装置を作る。

それが蒸気機関車であったと著者は考えています。

新橋-品川間の蒸気機関車は、且つて多摩川や鶴見川は地域を分ける厳然とした境界であったのに対して、機関車は1分と掛からず超えてしまう。

これを理解した明治政府は鉄道建設への投資を惜しまず、1889年新橋から名古屋、京都、大阪、神戸までの全線。

1891年上野から福島、仙台、盛岡、青森までの前線が開通。

新橋~横浜間の開業からわずか30年余りで、鉄道網は北海道から九州まで7000㎞を突破したそうです。

この鉄道によって、東京を中心とした統一の国民国家へ変身した。

筆者は、日本列島の流域地形を横ぐしに貫き、日本人を東京へ集中させる鉄道というインフラがこの奇跡を成し遂げたと考えているそうです。

②日本人の平均寿命をV字回復させたのは誰か

日本人の平均寿命が大正10年(1921年)に最低値の42.7歳から、一転して上昇し、今では世界一になっている。

その理由として医療の発達、清潔好き、健康保険制度の充実を挙げる人も多いようですが、実は水道普及率、更には塩素殺菌導入が、乳児の脂肪が劇的に減少した転換点となっているそうです。

実は水道の原水はさまざまな雑菌を含んでいて、塩素で殺菌されて安全になる。

殺菌されない水道水は、危険極まりない。

大人は腹を壊す程度で済むが、体力のない乳児にとっては命の問題となる。

実は明治20年(1887年)横浜市で日本最初の水道が給水開始となり、全国で次々と水道が開始されたが、35年間殺菌されない水道水が配水されていた。

この間の乳児死亡率が年間30万人超まで増えたそうです。

では、大正10年まで水道水が塩素殺菌されなかったのはなぜか。

実は、大正7年(1918年)にシベリア出兵が開始される中、陸軍から保土谷化学工業が毒ガス製造を依頼され、軍事開発用に、液体塩素を開発されたのが経緯なんだそうです。

塩素ガスは猛毒で、敵を殺傷する兵器として注目されていたそうですが、ガスは期待で流動性があり、容量も大きく扱いが難しい。

従って、液体塩素の製造開発の要求があり、開発されたそうです。

では、その液体塩素を民生用に活用し、直ぐに水道水を塩素殺菌するようにしたのは誰だったのか。

それが、後藤新平だったそうです。

後藤新平は内務省衛生局に入局後、ドイツに留学。

コッホ研究所で最近の研究をし、医学博士号まで獲得していたそうです。

その後、台湾総督府民生長官や満鉄総裁などを歴任した後、1920年(大正9年)に東京市長、その後帝都復興院総裁になります。

主に東京でインフラの整備を実行した人だったそうですが、大正7年に外務大臣に就任し、シベリア出兵の際、現地に行っていたそうです。

その後東京市長になり、東京の水道施設を視察し、細菌を大量に含んだ水道水が市民に向かって送り出されているのを目撃。

陸軍を押さえて軍事機密の液体塩素を民政へ転用する権力があったことが、日本が世界でもまれな長寿社会へ向けてスタートを切ったそうです。

③なぜ江戸は世界最大の都市になれたか

著者は、東京の発展の基盤は全国の人々の知恵と資金と労力によって作られ、東京の活性化は地方の人々によって支えられている。

また、この関係は400年前から江戸と地方の関係として形成されてきたため、江戸の生い立ちに東京の本質を知ることが出来ると考えるそうです。

1603年に徳川家康が江戸の都市づくりに向かい、隅田川の洪水から江戸の町を守る浅草から三ノ輪までの高さ3m、幅8mの堤防工事「日本堤」、神田から駿河台の高台を削り江戸湾を埋め立てて、現在の日比谷から新橋、銀座、京橋、日本橋、八丁堀が生まれたこと。

更に江戸を中心とした東海道、甲州街道、中山道、日光街道の整備、そして江戸城の築造など、地方の大名のお手伝い普請によってなされたこと。

その地方の大名たちは、領民から集めた年貢であったため、江戸の都市インフラは全国の地方の人々の年貢で整備されていったと筆者は考えるそうです。

また、江戸の商業、文化、芸術の発展も「参勤交代」というシステムにより、大名たちが妻子を江戸に住まわせ、2年に1度、自分は領地と江戸の間を行き来する。

妻子が江戸の住んでいたため、江戸中期になると、ほとんどの大名が江戸生まれとなり、大名が地方の領地へ単身赴任するという構図になる。

また江戸での大名は純粋な消費者であり、経費を捻出するために、諸大名は自藩の農作物、海産物、医療、そして工芸品を江戸、大阪、京都に運び込み、貨幣に変えた。

その結果、江戸の消費経済が繁栄を見せていった。

つまり、江戸文化を支えたのは消費する大名や商人たちであり、その消費する大名を支えていたのは地方の人々であったことから、江戸は全ての面で地方に支えられていたと考えているそうです。

明治政府のインフラ投資は、東京圏を最優先させ、国鉄の東海道線、横須賀線、中央線、常磐線と東京を中心に放射線状に整備され、都内では感情の山手線が整備。

これらの整備には、全国の人々から集めた税金が投入。

鉄道以外の道路、街路、河川改修、港湾、下水道、地下鉄、飛行場など東京のインフラが最優先された。

更に、多くの地方の人々が東京で消費し、東京の経済と文化を支えている。

その消費を端的に表しているのが東京に住む学生なんだそうです。

全国学生総数約400万人のうち、4分の1の100万人が東京にいるそうで、地方から上京して生活している人が40%とすると40万人。

毎月10万円の仕送りを受けていると仮定すると、400億円の現金が送られていることから、筆者は、東京で消費生活をする学生とその学生に現金を送り支える地方の親は現代版の参勤交代だと主張しています。

そして、400年間東京の安全と快適さが、地方に支えられていることを知り、地方の衰退が東京の衰退につながる事、日本の存続と発展にとって地方の自立と発展が不可欠であることを人々に知ってもらうことが大切だといいます。

④貧しい横浜村がなぜ、近代日本の表玄関になれたか

横浜はせいぜい150年の歴史しかない。

日本でも珍しい歴史のない大都市で、昔から語り伝えられているタブーなどが横浜にはない。

その歴史のない横浜で唯一の歴史が横浜水道で、横浜港は明治の日本国政府が作ったが、日本最初の近代水道の横浜水道を自分たちで作ったと横浜の人は引き合いに出します。

しかし、44㎞も離れた相模原の支川の道志川から野毛山の導水計画を作成し、日本最初の近代水道となる横浜水道が1887年に生まれる前、横浜村から開講してから28年間は、実は多摩川の水、二ヵ領用水から貰い水をしていたそうです。

実は二ヵ領用水を受ける川崎村は徳川幕府直参の誇り高い農民であり、上流の溝口衆と流血の水争いを潜り抜け、用水を守り通してきたなかで、しぶしぶ横浜に水を分け与えた。

その後、人口が増加していった横浜は新たに正常な水を確保する必要に迫られたときに、地理的に近い多摩川に拘ると水の争奪の相手が東京になり、勝てるわけがない。

そこで、相模川からの導水を実現したそうです。

また、神奈川は西を静岡の駿府に挟まれ、政治的に極めて弱く、箱根の芦ノ湖の水は、今でも神奈川県は手を出せないそうです。

近代に入り、神奈川県は相模川からの導水を増強。

相模ダム、城山ダム、三保ダム、そして宮ケ瀬ダムをも完成させたそうです。

④「弥生時代」のない北海道でいかにして稲作が可能になったか

筆者にとって、温暖化は寒冷化に比べれば、僥倖だと考えるそうです。

地球規模の人口増加と天然資源のひっ迫の未来、そして地球寒冷化では人類は救われない。

温暖化だからこそ救いがある。

特に南北に3000㎞と細長い日本列島では、亜寒帯の北海道が温帯となり、優良な農耕地帯となっていく。

従って北海道は未来の日本の切り札となると筆者は考えるようです。

実は、この北海道を流れる石狩川の蛇行を直線にし、全長360㎞あった川が268㎞まで短縮されることで、増水時の流下速度を上げることに加え、川底を下げて石狩平野の地下水を下げたそうです。

北海道では、堆積した植物の分解が進まず、植物が炭化した状態で堆積されてしまった泥炭層が残り、表土の農作度を他から搬入しても、仮想の泥炭層がいやというほど水分を含み、農作度がすぐ腐食して使い物にならなくなっていたそうです。

そこで泥炭層の水を抜き地下水を低下させることが、入植者の生死の分かれ目になっていたそうです。

1898年に未曽有の大洪水が石狩平野を襲い、中央政府も数年後に勃発する日露戦争を前に、北海道の国防上の重要性が増したこともあり、蛇行部のショートカット化が図られたそうです。

また、石狩川のショートカットは、川底が柔らかい泥炭層であることから、流れが早くなると川底の泥炭が削られていく。

川底が削られると石狩川の推移が下がり、水位が低下すれば泥炭層の地下水が石狩川に吸いだされ低下する。

これにより希望の大地へと変わっていったそうです。

21世紀は、穀物争奪の世紀となると筆者は推測しており、世界の穀物大陸が土地の疲弊と深刻な水不足で収穫量が激減していく中、世界中の各国で穀物の確保が最優先となり、何かあれば、自国の都合でいつでも輸出を止めてしまう。

その21世紀に日本は食物自給するための切り札が北海道にあり、100年後の北海道が今の東北から関東の気温になり、北海道の全域で稲作からありとあらゆる農作物が収穫できる。

北海道は東北6県と北関東3県を合わせた広大な土地であり、この地が日本の未来の食糧を支えていくと筆者は推測しています。

⑤「小型化」が日本人の得意技になったのはなぜか

日本人が小さなものに異常に愛情を感じている。

著者は1982年に出版された李御寧さんの「「縮み」思考の日本人」からその思考について共感したが、その理由を日本の地形に見出しています。

ユーラシア大陸から入ってきた丸い団扇を扇子に縮めた。

西洋から入ってきた長い傘を小型の短い折りたたみの傘にした。

大自然を庭の中に縮めこんだ日本庭園。

大きな期を縮めた盆栽、テーブルの食事を小さな箱に詰め込んだ幕の内弁当、詩を短く削ってついに17文字にした俳句などあげだすときりがない。

このモノを縮め姿勢を縮める日本人の考え方は中国人や韓国人と全く異なる。

この日本人の物を縮める文化こそ、世界の人々の共感を得ていく。

著者は、その理由を長野県佐久市の佐久市強歩大会という山梨県韮山市から長野県佐久市までの78㎞、15時間以上歩き続けるイベントに見つけたそうです。

歩いている間は、音楽イヤホーンもだめ。

持ち物を最小限にするそうです。

3000年前、日本人は排水の悪い湿地帯となる沖積平野で稲作を開始した。

山々に囲まれ、遠くを見通せない土地に生きていた日本人は情報好きで旅行好きだった。

日本人が旅をするときには、山々を超え、海峡を渡り、革を横断し、湿地帯を歩いていかなければならなかった。

江戸時代の大名行列でさえ、物は足軽たちが担ぎ、毎日歩き続けていたそうです。

細工して細かくする。

凝縮して小さく詰め込む。

細工してないものは不細工と非難した。

詰め込まないものは詰まらない奴と侮蔑した。

日本人のこの小さいものを愛し、細工して詰め込み、縮める技術を生んできたことそのものが、エネルギーを最少にする持続可能な社会を可能にする。

21世紀の人類の公開の羅針盤は、日本文明を作ってきた自分たち自身に確かな視線を向けることが大切というのが著者の結論です。

⑥日本文明は生き残れるか

人類にとってエネルギー確保は、宿命的な課題であり、エネルギーのためには世界中で森林を伐採し、山々を丸裸にしてしまった。

20世紀は石油をめぐって世界大戦に突入した。

2011年には原子力発電事故で放射能で汚染され、福島の住民を長く苦しめることになった。

このエネルギーについては、現在火力発電がメインとなっているが、需要が急増しており、何十年後には必ず逼迫し、枯渇する。

実は1898年に来日したグラハムベルが日本が革が多く水資源に恵まれていることを利用して、電気をエネルギー源とした経済発展が可能と予測したそうです。

尚、ベルは地形に関する屈指の学者で、ナショナルジオグラフィックの出版責任者でもあったそうです。

太陽エネルギーの絶対量は多い。

しかし、単位面積当たりのエネルギー量が薄い。

従って、太陽光発電や風力発電が単位面積当たりのエネルギーの薄さに苦しんでいる。

雨も太陽に照らされた海の水が蒸発して雨となる。

その雨がふっている限り、単位面積当たりのエネルギー量が薄い。

しかし、日本列島が山だらけで、一年中雨や雪が振っていることから、水力発電の可能性を上げていたそうです。

著者は、既存のダムの高さをかさ上げし、既存のダムの運用を水力発電に変えていけば良いと提唱しています。

例えば国土交通省や地方自治体が管理しているダムは、洪水と利水を併せ持つ多目的ダムで水力発電は行っていないそうです。

更に、治水のためには、なるべく貯水池に水を貯めないで空にして洪水に備えたい。

一方利水のためにはなるべく貯水池に水をためて日照りの渇水に対応したい。

従来洪水に備えて開けて置いた貯水池に水を貯め、貯水池の水力増で水力発電を行う。

では治水の機能については、現在台風の進路は3-4日前から明確に予測されていることから、台風の来襲がはっきりしてから、事前にダムから放流を行い、貯水池の推移を下げていく。

更に今のダムをかさ上げすることで、新たに大きな貯水池を手にすることが出来る。

電力供給の大きな問題の1つが電力のピーク需要の対応であることに値して、水力発電は簡単に対応することが出来る。

既存の本ダムの下流の渓谷に小さな服ダムのような貯水池を建設し、電力需要のピークの2-3時間、本ダムでピーク発電を行うピーク発電で放流された大量の水を貯水池で一時的に貯め、副ダムから下流に安定した水量を放出することで、対応できる。

この既存ダムの運用の変更と既存ダムのかさ上げを日本全国で行うと、新たに930万kw、100万kwの原子力発電所9基分がまかなえるそうです。

⑦私の所感-今回の話も面白かった!

竹村さんの話は、日本全国、時には世界の中での日本という視点で話を進めるので、私には凄く面白く感じます。

今回挙げた話以外にも、江戸時代のエネルギー政策、織田信長の強み、日本国旗(太陽)の由来、更にピラミッドが何故建設されたかなど、様々なテーマが出てきます。

是非本の方もご一読頂ければと思います。