お世話になったゼミの教授を囲む会にて-海外との繋がりはここから始まった

11月5日に大学時代にお世話になったゼミの教授を囲む会に参加してきました。

私が所属していたゼミは、慶応大学経済学部の島田 晴雄先生のゼミで、30期まで続きました。

(ちなみに、私は22期、1998年から1999年に在籍していました。)

島田晴雄 – Wikipedia

経済学部のゼミといっても、当時は、マクロ経済、労働経済に加えて、経営、環境、政治経済と、5つのパートがあり、様々なフィールドワークを中心とした活動をしていました。

このゼミを卒業した人には、大学教授や銀行や企業の幹部になった人も多く、卒業しても大学院に通って勉強している方も居たりと、視野の広い先生の元、勉強熱心で前向きな学生が集まっていたと感じました。

例えば、会計士になったにも関わらず、さらに勉強して、スタートアップや産業育成に関する専門家として教える立場になった人や、経済学を大学で教える立場からIMFに出向したりする方など、私などは落ちこぼれの部類だと感じる方が沢山います。

私の転機となった中国上海と韓国でのゼミ合宿

島田ゼミの活動として、中国/韓国/台湾に1年に一度訪問し、現地の大学等との共同研究、発表を行うといったことをしていました。

1998年、私の大学3年生の時には、中国 上海を訪問。

復旦大学と社会科学院を訪問し、書いた論文を発表し、討論をするといったことをしました。

(4年生は韓国 ソウル大学と延世大学)

また、それ以外にも、

➀主にアジアからの留学生も参加するアジアデー、

②ごみ収集の実態を知るための環境デー、

③同学年で行うデイベート大会、

④他の有名な大学の経済ゼミも参加するインゼミ

(SFC竹中ゼミ、一橋中谷巌ゼミ、大阪本間ゼミ、東大伊藤ゼミなど参加していた気が)

など、様々なイベントや交流がありました。

私にとっては、その中でも、初めて訪問した中国 上海、浦東エリアにおける不動産開発、そしてシャープの工場見学を見た際に、「アジアの時代が来る」と学生なりに感じたこと。

また、1999年には、島田先生に同行させていただき、マレーシアも訪問し、現地で商売されている方、商社の方との会食やパナソニックの工場などを見学させていただいたことが、後々の人生を決めるきっかけになった気がします。

就職活動の時には、山崎豊子さんの「大地の子」を読み、韓国最大の鉄鋼メーカーPOSCO、そして中国最大の鉄鋼メーカー宝山鋼鉄の建設にも関わった新日本製鉄(現日本製鉄)に入り、エンジニアリング事業の海外畑を進んだのも、この時のゼミの経験がベースにありました。

蛇足ですが、高校時代に水球部の監督の人脈で、オーストラリア シドニーオリンピックプールにて、オーストラリア州代表(16歳以下)と試合をさせていただいたことなども良い思い出として今でも残っています。

改めて島田先生について感じたこと

島田先生が書いた「ヒューマンウェアの経済学」という本は、当時アメリカにおいてトヨタやホンダがトヨタ生産方式及び日本型労使協調の概念を持ち込み、生産活動や経営を成功させていた要因を書いた本で、固い本にもかかわらず日本でもサントリー学芸賞を受賞しています。

労働経済学者にも拘わらず、フィールドワークを大事にし、当時最先端だった日本の自動車生産方式に生産、労使の面から切り込むという視点で、高い評価を受けたのだと思います。

ゼミに在籍した当時は、学生への授業や専門の研究に熱心ではないのでは?という批判の声も聞こえていましたが、こういったフィールドワークを大切にする考え方は、異色だったし、その原点は当時最先端の産業における海外の労使関係を研究したことにあると思います。

80歳になられた今でも、島田先生は、学生や社会人への学びの場を提供しようとしたり、VoicyやNoteで意見を発信したりと、お元気に活動されています。

HARUO SHIMADA Web Site | 島田晴雄 公式ホームページ

卒業して20年経ってみると

卒業してから20年超、主に海外を見続けてきた立場からすると、この間の中国及び東南アジアの伸び方は凄かったの一言につきます。

2000年代当初から、2010年代前半までは、兎に角中国。

家電や日常品、建設、鉄鋼、造船など様々な分野で世界一になりました。

そして当時、東南アジアはシンガポール、マレーシア、タイが中心だったのが、ベトナム、インドネシアの経済成長が始まる。

更に韓国、台湾も引き続き半導体や携帯電話、エンタメなどで続伸。

今後、人口の観点から、経済の面では南アジアやアフリカが伸びて行くと共に、引き続き中国、東南アジアの経済も伸びることでしょう。

日本企業は、現地市場開拓、コストダウンの為に、海外進出を加速化。

結果として、現地で生き残り、強くなった企業もあれば、現地企業との競争に敗れ、業界としても衰退した業種もあったかと思います。

まさかの家電(ダイキンなど除く)が衰退し、素材や半導体製造装置、車が生き残るとは思ってもみませんでした。

今の中国は習近平政権の下で明らかに世界からはネガティブなイメージを持たれている。

しかし中国内での様々な分野での研究、投資のレベルは凄まじく、アメリカと共に今後数十年の世界を引っ張る存在であり続ける事は間違い無いでしょう。

このアジアの世紀にインフラ建設という形で様々な国に関われたことは凄く有難い事だし、引き続き日本人と海外をつなぐ事をモットーに生きていきたいと思います。

最後に-原点は労働経済学(社会保障政策)を研究していた

学生時代、ゼミで中国に持って行った課題は日中の社会保障政策でした。

年金、医療制度が充実している日本に比べ、中国の制度が不十分であることから、中国での制度の充実化を提言したと記憶しています。

皮肉なことに、20年経った今、日本の社会保障制度は充実している反面、日本の社会保険料の負担率(企業、従業員合計)は30%を超え、財政面でももう成り立たなくなって来ました。

今の日本の閉塞感の一つが、老人にお金が回り、若い人や研究にお金が回っていない事は明白です。

日本とインドなどの海外を繋ぐ事を第一のミッションとしつつも、社会保障制度の件について政治家に伝え続け、制度改訂に向けて対応して貰うことが、今の日本国内で現役世代が貢献出来るもう一つのポイントのように思えて来ました。